本日午後一番で登壇!傍聴席が満員御礼状態の中、1件目は「続・日本語の乱れ」と題して質問しました。「続」とあるのは、平成28年 2月定例会における質問「日本語の乱れについて」の続編だからです。教育的見地からの現状認識と対応について赤羽教育長から、片仮名語の増殖・氾濫については宮之本副市長と臥雲市長から、それぞれご答弁をいただきました。宮之本副市長は、愛読書らしき新書を持参、身振り手振りを交えて熱弁をふるった後、「片仮名語は必要、今後も適切に使い続ける」と言われました。吉村とのやり取りに、議場が湧きました。
新市政になって 1年、行政においても片仮名語がとみに増えたと感じます。このたび、吉村が行った独自の聞き取り調査では、多くの方々が片仮名語(外来語・英単語)の意味を正確に知らないまま、自分なりに想像して解釈している傾向が浮き彫りになりました。「年寄りや無学な人も語りかけの対象とする公の人には、片仮名語をなるべく使ってほしくない」と訴えた、40代男性の会社経営者もいました。「ひとりも置き去りにしない」を標榜しながら、片仮名語の意味が分からない市民を切り捨て、結果、受容できる行政サービスに格差を生じさせています。なおかつ、政治家にとって、言葉は武器。相手が正しく理解して打ち返すことによって、健全な論戦が成立し、引いてはそれが民主主義に資すると私は考えます。片仮名語は、責任の所在や事態の原因といった大切な要素を曖昧にしてしまいます。
片仮名語の歴史は、あることを言いたいのだけれど、それにふさわしい日本語が見当たらない時に、やむなく外国の言葉を借りるところから始まっていると思います。使う時はあくまでも借りる感覚で使う。この感覚を失ってしまうと、片仮名語はとめどなく増殖していき、増殖した分だけ日本語が消えてしまいます。そのうち日本語は、接続詞や助詞だけになってしまうかもしれません。こうした吉村の指摘に、宮之本副市長は大きく頷いておられましたし、臥雲市長は「できるだけ分かりやすい言葉遣いを心がける」と言ってくださいました。
2件目は「地域づくり拠点の三位一体化と地区公民館」です。住民自治局が新設され、地域づくりセンターの人員・権限・予算がセットで拡充されると報道されました。いわゆる「地域づくり拠点の三位一体化」です。私は、平成20年度から6年間、松本市寿台公民館長を務め、地域づくりの最前線におりました。地域づくりをさらに推進していく方向性には賛成ですが、現場を踏んできた人間として、現実的な弊害や本末転倒に陥る可能性が考えられると思います。
中でも、このたびの地区公民館を地域づくりセンターへ一体化するという改編は、公民館の一大事だと私は受け止めています。ところが、この大きな変革について、関係者の意見をあまり聞いてはいないようです。市民意見を充分に聞いて検証につなげること、特に公民館運営審議会と社会教育委員会には、地域づくり実行計画の最終年度(令和 3年度)に際し、諮問するよう求めました。
今回の組織改編のねらいは、各地域ができるだけ自らの権限で地域課題の解決に向けて取り組んでいくことができる仕組みをつくるとのことですが、顧みれば、そもそも地域課題が増大・複雑化して地域だけでは解決できないことを背景に、地域を超えた多様な連携を可能とすべく、新たな地域づくりシステムの運用が始まったわけですから、本末転倒ではないかと思います。また、今回の一体化によって、センター長の権限は増大するものの、公民館は館長と主事になって実質的な減員、公民館の求心力は低下してしまいます。さらに、誰がどう見ても、会計年度任用職員という待遇の公民館長は、正規職員で権限が強化されたセンター長の部下。部下は上司に逆らえません。形式的な機関としての独立性のみならず、実際に裁量権を発揮できるという実質が、極めて重要なところです。地区公民館長を特別職に戻すなどして、力の均衡を図っていただくよう、強く要望いたしました。
自由な学びは、公民館の独立性が担保されることによって保証されています。学問の自由は、批判的性質を有するがゆえに時の権力から弾圧を受けやすく、平和学習や人権啓発の取り組みは、公民館とカルチャーセンターとの違いの一つですが、こうした政治と結びつきやすい分野は、忖度・自粛・規制の対象となりやすいといえます。日本国憲法23条は「学問の自由」を保障していますが、明文で「学問の自由」を規定している国は少ないようです。さらに、松本市公民館条例では、使用料の減免の権限を市長に与えているのに対して、公民館の使用に関する権限を教育委員会に与え、公民館の廃止については「議会の出席議員の3分の2以上の同意」という特に厳格な要件を課しています。市の公民館の存在と活動に対し、あえて市長ではない者に権限を与えて、権力の分散を図っていることの重みを鑑みるべきでしょう。施設の使用許可権限をセンター長が補助執行するという話も聞きますが、センター長の権限強化の上に補助執行という新たな権限の付与は、公民館の使用に関する権限をわざわざ教育委員会に帰属させている公民館条例を骨抜きにしてしまう恐れがあり、公民館の自治を侵し得る可能性を秘めていると思います。「今、大丈夫そう」とか「あの人は悪気がないから良い」という話ではなく、公民館条例の趣旨に鑑み、どなたが為政者になろうとも、いかなる時代になろうとも侵すことのできない仕組みを担保しておくことが必要。条例の趣旨を没却するような組織改正は、あってはなりません。
学びの自由などの精神的価値は、傷つきやすく回復しにくいものとして、法律の世界では「ガラスの壺」に例えられます。よって、より慎重に扱う必要があるわけです。即ち、この領域にはスピード感や弾力的運用、臨機応変な対応などはそぐわないと考えます。
自由な学びの保証について、平時は良いのですが、世の中が少し不穏になると萎縮しやすく、忖度が働きやすいと感じます。さいたま市の78歳の女性が詠んだ「梅雨空に九条守れの女性デモ」という俳句が、秀句に選ばれたにも関わらず、市の職員が公民館だよりへの掲載を拒否して問題になりました。発端は、市職員が政権の動きを忖度したこと。不掲載を違法とする判断が最高裁で確定したのは平成30年12月、記憶に新しいところです。
目的は何であれ、センター長に権限が集中することは権力を生み、権力の集中とは危険なもの。同じ建物の中にセンター長と公民館長が対等にいて、抑制と均衡を保っているという、一見面倒な状況が危険を防ぎ、市民の「学問の自由」を守ることになるのです。
公民館活動は、戦後の復興期から70年にわたる、様々な戦いの歴史でもありました。昭和47年3月まで兼務辞令のもとにあった公民館は、支所・出張所の手伝いと2足のわらじを履いての活動だったと聞きます。ようやく専任化を実現した歴史の流れの中で、このたびの一体化は半世紀前への逆戻りではないかとも感じます。松本市の学びと自治の文化は、歴代の全ての市長が大切にして引き継いできた宝。公民館のあり方については、再度、多角的な検討を行っていただくよう要望いたしました。